"その昔、カルバン・クラインの娘が、「さあこれからって時に、相手の男のパンツに自分の父親の名前が書いてるのって、サイアクよ」的なことを言ってた。すごい笑った。 RT http://instagr.am/p/LBMGM9jnWj/ "
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ぼくは中学1年生のとき、同時に二つの恋をした。一つは数学への、もう一つは、ある女子への恋である。そして、その女子への恋は五年間ほど継続し、数学への恋はもうちょっと長く続いた。
その女子は、医者の娘で、中学生になってから我が町に引っ越してきた。明らかに、ぼくら下町の少年少女とは、考え方もものの見方も、そして匂いそのものが違っていた。美人で、早熟で、頭がよく、字も絵も音楽も得意で、おまけに政治的でとある政治運動に参加していた。(だいぶ昔、東大生が内ゲバを阻止した話 - hiroyukikojimaの日記にその辺の政治の話を書いた)。ぼくは、彼女の「字」が欲しいがために、「数学班」という交換ノートのグループを組織して、すぐに彼女を勧誘したが、「数学は嫌い」、と言われて、慌てて「文学班」に鞍替えして、彼女に参加してもらった。それが、ぼくが文学に触れるようになったきっかけだった。思い出すだに不純な接触の仕方であった。その交換ノートを情報源にして、ぼくは、彼女の読んだ本を読み、聴いている音楽を聴いた。そんな風に、ぼくは一方的に彼女への自分の思いを募らせていったのだが、ずいぶんたったあるとき、彼女にこんな趣旨のことを言われた。つまり、「自分はあなたが思っているようなタイプの女の子ではない」という風なこと。たぶん、ぼくの恋心の終わりに近い局面だったと記憶している。そのとき、ぼくは女子のいわんとすることがわからなかったのだが、今はとてもよくわかる。そう、ぼくは彼女に「こうであって欲しい女の子」のイメージを身勝手に押しつけていたのだと思う。彼女の人間としての実像を理解しようとはせず、自分の恋心の偶像を彼女にかぶせていたにすぎなかったのだ。だとすれば、彼女にはとても迷惑だったろうと、今では申し訳なく思う。
回り道が長くなったが、ぼくがいいたいのは、その「身勝手な恋心」というのを数学にも抱いていたに違いない、ということだ。
ぼくにとっての数学は、中1のときにフェルマー予想に、そして数論に恋心を抱いた、そのありかたのまんまで進歩をしなかった。本当の数学は、生臭くて、厳しくて、わがままで、冷酷な、そしてだからこそ進化していく実体であるにもかかわらず、ぼくは数学科に進学してもまだそう見ることができなかった。ぼくの中で数学は、いつまでも、ロマンティックで美形で心優しくて妖艶なもののままでいた。だから、思うように勉強できず、理解もできず、かといって諦めることもできなかったんじゃないか。今ではそう感じられる。その証拠にぼくは、大学1年のときの特別講義で、セール『数論講義』の輪読に出席しようとでかけたとき、教員が「数学セミナーなんか読んで数学やろうと思った人はお帰りください」と酷いことをいうのを聴いたとたん、一人だけ退出した。また、数学科では、「数論をやりたいなら代数幾何とか保型形式とかを勉強しなさい」と教官にいわれたのに、「古典理論」にこだわって勉強しようとしなかった。今思えば、その代数幾何と保型形式が憧れのフェルマー予想を解決したのだから、教官のいうことが正しかったのだ。けれども当時のぼくは、自分の「身勝手な恋心」にこだわった。そして、実体の伴わない恋は、終わりをつげることになったのだ。
今回のぼくの俄仕込みの勉強で、それなりの成果を得られたのは、もう数学がそういう「身勝手な恋心」の対象ではなくなったからなんだと思う。今のぼくはひどく冷静に数学を値踏みすることができている。それなり美しいし、みごとなものだけれど、それ以上の対象ではない。ミニスカでニーソックスの女子は、眺める分にはいいが、ぼくが焦がれた女子とはぜんぜん次元の違うものだというのと似ている。(どういう喩えじゃね)。
"hiroyukikojimaの日記 - 数学への恋心 (via shayol)
2009-02-26
(via gkojay)「こういう恋愛はダメなんだよ」
●お弁当を作って貰う恋愛
●お金のかかりすぎる恋愛
●セックスが巧く行かない恋愛
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"こういう恋愛はダメなんだよ: ★★開運マルモリ面白書評倶楽部!★★ (via tamejirou)
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人類永遠の問題「幸せって何だっけ?」 : ITスペシャリストが語る芸術 (via itokonnyaku)
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煙草について | アパートメント (via eternityscape)
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周囲を写すこと - いつかの昨日 (via ishizue)
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文化とは、「どれだけ無駄なものにお金を投下できるか」です。 私は街のタイルの写真を撮って歩くのが趣味ですが、文化度の低い国には、タイルはありません。 西洋圏、とくに歴史のある国には、凝りに凝ったデザイン、材質のタイルが敷き詰められています。 街自体が作品としてのデザイン性を帯びているのです。 フランスでは、社会化見学でかならず美術館に行きます。美術に投下する予算もあります。 美術や芸術などは、なくては生きていけないものではないです。 いや、「そんなものはなくても生きていける」という、いまの日本の風潮そのものが、いまの日本の文化であり、フランスやイタリアの人たちは、「なくては生きていけない」とすら思っている節があります。 信じられないでしょう? でもそうなんです。
自国を振り返ってもおなじことなのです。 大学ひとつとっても、文学部という「無駄」はいま削減傾向です。 文学は、生きていくのに全く必要ないからです。 しかし、かねてから力説しているように、「文学部が充実している大学こそいい大学」なのです。 これは間違いないんです。無駄なものに予算を投下しているだけの余裕と体力と覚悟があるからです。
"続・日本のクリエーターはなぜ金持ちになれないか | サンキュータツオ教授の優雅な生活 (via otsune) (via gkojax) (via plus16hours) (via fudan10u)
2009-10-24
(via gkojaz) (via mcsgsym) (via iroha) (via tra249) (via shinjihi)
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